生物多様性とは何か (8)「国外企業における生物多様性イニシアティブ」

生物多様性とは何か (8)「国外企業における生物多様性イニシアティブ」

※本コラムは2026年9月に加筆修正しました。

1. グローバルな潮流と規制動向

気候変動から生物多様性へ:企業意識のパラダイムシフト

グローバルな企業サステナビリティの議論は、過去10年間にわたり気候変動対策が中心的な課題とされてきましたが、近年、その焦点が自然資本の保全と回復へと急速に広がりつつあります。この意識の変化は、温室効果ガス排出量の削減のみでは真のネット・ゼロ(Net Zero)を達成できないという認識が高まったことに起因します。
気候変動と生物多様性の損失は相互に深く関連しており、一方の危機を解決することなく他方を解決することは不可能であるという理解が広まっています 。  

このパラダイムシフトの背後には、生物多様性の損失が事業活動に直接的なリスクと機会をもたらすという、経済的な現実があります。世界経済フォーラムの分析によると、世界の国内総生産(GDP)の半分以上にあたる44兆ドルが、自然とそのサービスに中程度または高度に依存しています 。この事実は、健全な生態系がなければ、経済的な安定性と長期的な成長は成り立たないことを明確に示しています。水資源の確保、肥沃な土壌、作物の自然な受粉といった不可欠なエコシステムサービスが失われれば、サプライチェーンは寸断され、事業の継続性が脅かされます 。  

このような認識は、企業が自然資本を単なる外部性や慈善活動の対象としてではなく、事業のレジリエンスと長期的な価値創出を強化する戦略的な「資産」として捉え始めたことを物語っています 。このアプローチの転換が、食品・消費財セクターにおけるサプライチェーンのレジリエンス確保 、金融セクターにおける「ネイチャー・テック」への積極的な投資 、そして再生型農業のような包括的な取り組み の根本的な動機となっています。  

この見方は、科学の側からも整理されつつあります。生物多様性および生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム(IPBES)は、2026年2月9日、英国マンチェスターで開かれた第12回総会で「ビジネスと生物多様性評価」を承認しました。この評価は、生物多様性の減少を、経済と金融の安定、そして人々の幸福を脅かす重大なシステミックリスクと位置づけています。企業にとっての自然の問題を、個別の環境対策ではなく経済全体に関わるリスクとして扱う見方が、国際的な科学評価の場でも共有されたことになります。

国際的な枠組みの台頭:TNFD、SBTN、昆明・モントリオール世界生物多様性枠組 が牽引する企業行動

企業が自然関連の取り組みを加速させる主要な原動力となっているのが、国際的な政策枠組みと自主的な報告フレームワークの台頭です。2022年12月に採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組み(Kunming-Montreal Global Biodiversity Framework, GBF)は、2030年までに生物多様性の損失を止め、回復させるという国際的な公約を確立し、23の具体的な行動目標を掲げました 。  

この枠組みは、採択されたあとも実装の段階が進んでいます。2025年2月にローマで開かれたCOP16再開会合では、遺伝資源のデジタル配列情報(DSI)の商業利用から生じる利益を配分するための「Caliファンド」が2月24日に発足しました。CBD事務局によれば、同ファンドの資金の50%は、先住民族と地域社会が自ら示す必要に配分されます。続く2月27日の閉会では、資源動員の道筋として、2030年までに年間少なくとも2,000億ドルを動員することが合意されました。このうち国際的な資金フローは、2025年までに年間200億ドル、2030年までに300億ドルへ引き上げるとされています。あわせて、23の行動目標と4つのゴールに対する進捗を測るための指標(モニタリング枠組み)も確定しています。

各国の計画づくりは進行中です。CBD事務局は、2026年2月に開かれた第6回実施補助機関会合(SBI-6)の閉会にあたり、締約国の75%が国別目標を提出したこと、直近の分析からさらに20件の国家戦略(NBSAP)が提出されたことを発表しました。枠組みの実施状況を各国がそろって振り返る最初の機会は、2026年10月19日から30日にアルメニアのエレバンで開かれるCOP17です。ここで枠組みの最初のグローバルレビューが行われる予定で、本コラムの国際的な枠組みに関する記述も、その結果を見たうえで改めて見直す予定です。

この国際的なマンデートに応える形で、企業は具体的な行動基準と報告ガイダンスを求めています。これを提供しているのが、自然関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures, TNFD)と、科学的根拠に基づく目標設定ネットワーク(Science Based Targets Network, SBTN)です 。これら二つのフレームワークは相互に補完的な関係にあります。SBTNは、企業が自社の事業が自然に与える影響と依存関係を評価し、淡水、陸地、海洋といった生態系全体にわたる科学的根拠に基づいた目標を設定するための具体的なプロセス(アセスメント、優先順位付け、目標設定、行動、追跡)を提供します 。一方、TNFDは、その目標設定プロセス、進捗、そして事業における自然関連のリスクと機会を投資家やステークホルダーに開示するための推奨事項を定めています 。  

これらのフレームワークの登場は、生物多様性保全への取り組みを客観的に評価し、投資家との間で「共通言語」を確立する上で不可欠です。TNFDが2023年9月に勧告を発表して以来、日本航空やかんぽ生命保険といった日本企業を含む世界中の企業が、TNFDに準拠した開示を開始しています 。金融機関もまた、TNFDへの対応を投資先企業に求める動きを強めており、HSBCアセットマネジメントはTNFD準拠の報告を奨励しています 。これらの枠組みは、企業が自然保全への取り組みを単なる「慈善活動」ではなく、「経営戦略」として位置づけ、投資家とのコミュニケーションを円滑にするための基盤を形成しつつあります。  

採用の広がりは数字にも表れています。TNFDは2025年11月7日、勧告に沿った報告を表明した組織(アダプター)が56の国・地域で733組織に達したと公表しました。この中には、時価総額の合計が9.4兆ドルを超える上場企業と、運用資産22.4兆ドルを預かる金融機関179社が含まれます。国別の状況としては、EYの集計によれば2024年1月時点で、世界320の企業・団体のうち日本企業が80社を占め、国別で最多でした。世界の総数と国別の数、そして集計の時点はそれぞれ異なりますので、混ぜずに読む必要があります。

TNFD 提言に沿った開示を表明した組織(adopter)の数 TNFD の adopter は2024年1月の320組織から2025年11月の733組織へ増加。 TNFD 提言に沿った開示を表明した組織 (adopter)の数 2024年1月(早期採用の公表時)と 2025年11月(COP30 時点)。 日本は2024年1月に80組織で国別最多 2024年1月 2025年11月 320 733 世界
図1 TNFD 提言に沿った開示を表明した組織(アダプター)の数。出典: TNFD 発表(2025年11月7日・COP30)。2024年1月の320組織は TNFD 早期採用者の公表時の数で、EY の集計では日本企業80社が国別最多でした。2時点の集計対象が同一とは限らないため、推移の目安です。

SBTNの側でも実績が積み上がっています。SBTNが2025年12月17日に公表した1年の振り返りによれば、企業向けプログラムには40か国300社が参加し、これまでに10社が検証プロセスを終えて、50を超える自然に関する科学的根拠に基づく目標が検証されました。海洋分野では、2025年3月に水産セクターから初めての目標が発表されています。

金融側にも、企業をまたぐ集まりがあります。Finance for Biodiversity Pledgeには29か国から200を超える金融機関が署名し、その運用資産の合計は約20兆ユーロとされています。企業へのエンゲージメントを行うNature Action 100には、240を超える機関投資家が参加し、運用・助言する資産は合計30兆ドルを超えるとされています(いずれも各団体の公式サイトに掲載されている数値で、2026年9月時点の記載によります)。

グローバル企業の現状:地域別・産業別の報告動向

KPMGが2022年に実施した調査は、当時のグローバル企業における生物多様性報告の状況を示しています。この調査によると、2022年調査時点で、生物多様性・自然の損失を事業リスクとして認識していると報告した企業は、N100で40%、G250で46%にとどまっていました 。その後、KPMGが2024年11月に公表した「Survey of Sustainability Reporting 2024」(2023年7月から2024年6月までに公表された報告書が対象)では、生物多様性について報告する企業がG250・N100ともにおよそ半数となり、4年前のおよそ4分の1から増えたと報告されています。ただし直近2年間の伸びは緩やかで、地域による差は2年前より縮まり、中東・アフリカの企業が世界平均に近づいたとされています。なお、以下に示す地域別・国別・産業別の数値は、いずれも2022年調査時点のものです。  

しかし、地域別や国別に見ると、取り組みに大きな差があることがわかります。N100企業の報告率では、ラテンアメリカが50%と最も高く、北米(45%)、ヨーロッパ(39%)が続いています。国別では、英国(77%)、タイ(68%)、南アフリカ(68%)、日本(64%)が上位4か国でした 。日本のこの高い報告率は、TNFDへの初期からの積極的な関与とも整合しており、国際的な評価における潜在的な強みとなりえます。  

産業別の動向も変化しています。以前は、鉱業などの自然に直接的に影響を与える抽出産業が生物多様性報告の中心でした。しかし、2022年以降は、TMT(テクノロジー・メディア・通信)や自動車セクターなど、より広範な産業で報告件数が顕著に増加しています 。これは、企業が自社の直接的な事業活動だけでなく、サプライチェーン全体(Scope 3)における隠れた自然への依存関係や影響に目を向け始めていることを示しています。例えば、テクノロジーセクターは、データセンターの冷却や半導体製造に莫大な量の水を消費し、サプライチェーンにおける鉱物採掘は広範な土地利用の変化を引き起こします 。  

これらの傾向は、まだ報告率が低い現状においても、TNFDやCSRDのような規制と、サプライチェーン全体のインパクトへの意識の高まりにより、今後急速に報告と具体的な行動が加速すると予測されます。日本企業は、この動きを先行して捉え、報告の量だけでなく、TNFDやSBTNに準拠した質の高い開示と目標設定を通じて、国際的なリーダーシップをさらに強化することが次のステップとなるでしょう。

開示規制の動き(2025〜2026年)

自然に関する情報開示のルールは、2025年から2026年にかけて複数の変更がありました。ここでは、確認できた事実と時点を並べます。

国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)は2025年11月7日、自然に関するリスクと機会の開示について、調査の段階から基準設定の段階へ進むことを決定しました。IFRS財団の発表によれば、既存基準の改訂、適用ガイダンス、業種別ガイダンス、新基準などを組み合わせる方針で、2026年10月の生物多様性条約COP17までに公開草案を用意することを目標としています。検討にあたってはTNFDの枠組みを土台とすることも示されており、TNFD側も現在の技術的な作業を2026年第3四半期までに完了させるとしています。

欧州連合(EU)では、企業サステナビリティ報告指令(CSRD)と企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)を簡素化する「オムニバスI」指令が2026年2月26日に採択・官報公布され、2026年3月18日に発効しました。欧州議会の資料によれば、これによりCSRDに基づく報告が求められるのは、平均従業員数1,000人超かつ純売上高4億5,000万ユーロ超のEU企業となり、セクター別の報告は任意となります。

森林破壊防止規則(EUDR)についても、2025年12月に改正規則(規則(EU)2025/2650)が採択され、適用開始が延期されました。欧州委員会の案内によれば、規模を問わず川下の事業者および取引業者と、大規模・中規模の事業者は、2026年12月30日からの適用となります。零細・小規模の企業も、規則(EU)995/2010の附属書に掲げる産品については同じ日からの適用です。自然人である事業者と零細企業は、それ以外のEUDR対象産品について2027年6月30日からの適用となります。

開示の基準づくりを進める動き(ISSB)と、義務の対象や適用の時期を絞る動き(EUのオムニバスI指令、EUDRの適用延期)が、同じ時期に並行して起きています。企業の自然への取り組みを読むときは、どの制度が、いつの時点で、誰に何を求めているのかを、あわせて確認しておく必要があります。


2. 変革を促す金融セクターの役割

機関投資家と金融機関のコミットメント:HSBC、BNP Paribasの事例

生物多様性保全への資金の流れを加速させる上で、金融セクターは受動的な資金提供者から、企業の行動を積極的に変革させる「能動的なアクター」へと役割を進化させています。これは、自然資本の劣化が金融機関自身のポートフォリオに与えるマクロ経済的リスクを認識したことによるものです。

HSBCアセットマネジメントの事例は、機関投資家がポートフォリオ内の自然関連リスクをどのように管理しようとしているかを示しています。同社は、生物多様性を重要な課題と特定した投資先企業に対し、2030年までのネガティブインパクトの最小化、サプライチェーン全体のリスク評価、科学的根拠に基づく目標設定、そして適切なガバナンス体制の確立を求める具体的なエンゲージメント方針を定めています 。特筆すべきは、これらの要求に応じない企業に対しては、取締役会の議長や関連取締役への反対票を投じる可能性を示唆している点です 。これは、投資家が企業の自然関連リスク対応を単に開示情報として受け取るだけでなく、コーポレートガバナンスにまで踏み込んで能動的に管理しようとする姿勢の表れであり、企業価値の毀損リスクを回避するための強力なシグナルを発しています。  

一方、BNP Paribasは、直接投資を通じて新たな市場を創出し、実体経済の変革を促すアプローチをとっています。同行は、天然資本の保護と回復に特化した5500万ユーロの投資ファンドを設立し、気候変動対策と生物多様性保全の両立を目指す「ネイチャー・テック」企業に直接投資を行っています 。支援対象には、衛星画像とAIを組み合わせたメタン排出量監視を行う「Kayrros」、再生型農業を推進するプラットフォーム「Klim」、そして環境DNA技術を活用して生物多様性をモニタリングする「NatureMetrics」といった革新的な企業が含まれています 。これは、生物多様性保全が単なるコストではなく、収益機会を生み出す新たな市場として認識され、金融セクターが「リスク回避」から「価値創造」へと戦略を転換している明確な証拠です。  

「ネイチャー・テック」への投資:新たな市場と資金の流れ

テクノロジーは、生物多様性保全における最大の課題の一つである「測定可能性の困難さ」を克服する上で、決定的な役割を果たしています。世界のネイチャー・テック市場は、2022年の約20億ドルから2030年までに60億ドルに成長する潜在力があると予測されており、この分野への投資が急速に増加しています 。  

この市場の成長を牽引しているのが、衛星、AI、ドローン、そして環境DNA(eDNA)といった先端技術です。これまでは大規模かつ正確な生態系データの収集が困難でしたが、これらの技術は、保全活動のインパクトを定量的かつ科学的に測定する新しい方法を提供しています。例えば、マイクロソフトのAI for Good Labが開発した「SPARROW」は、太陽光発電式の音響デバイスで遠隔地の生物多様性データを収集し、AIを用いて野生生物を特定します 。これにより、従来の調査方法では困難だった、コスト効率の高い広範なモニタリングが可能になります。  

このような技術的進歩は、投資家にとってのリスクを低減し、生物多様性プロジェクトをより魅力的なものにしています。BNP Paribasがネイチャー・テック企業に投資しているのは、これらの技術が明確で測定可能な「生態学的および財務的リターン」をもたらすと見なしているためです 。テクノロジーは、生物多様性保全を主観的な「善行」から、客観的なデータに基づいた「戦略的投資」へと変貌させ、この分野の市場化を加速させています。これは、企業や投資家が参加できる新たな経済機会を創出するだけでなく、TNFDのような開示フレームワークの実装を技術的に可能にするという重要な役割も担っています。  

金融ガイドラインの進化:IFCとUNEP FIが示す新たな基準

公的金融機関や国際機関は、民間セクターの資金が生物多様性保全に流れるための「インフラ」と「ルール」を構築し、市場全体の行動を方向づけています。生物多様性ファイナンスは急成長分野ですが、初期段階では、投資家が「何に投資すればよいか」を判断するための共通ガイダンスが不足していました 。  

このギャップを埋めるため、国際金融公社(IFC)は「Biodiversity Finance Reference Guide」を開発し、投資家や金融機関が生物多様性ファイナンスと見なされる適格な資金使途を特定するための構造的なアプローチを提供しました 。また、世界銀行グループは、気候変動と生物多様性の両危機に一体的に取り組むことの重要性を認識し、多国間開発銀行(MDBs)が自然を事業に主流化するための「Common Principles for Tracking Nature-Positive Finance」を発表しました 。これらの原則に基づき、世界銀行グループ全体で適用される「Nature Finance Tracking Methodology」も開発・公開されています 。  

さらに、国連環境計画・金融イニシアティブ(UNEP FI)は、昆明・モントリオール生物多様性枠組み(GBF)が掲げる資金ギャップ解消目標(2025年までに年間200億ドル、2030年までに300億ドル)に向け、市場でのネイチャー関連ファイナンスの採用を加速させるためのパートナーシップを推進しています 。これらの公的機関によるガイダンスや原則は、単なる推奨ではなく、世界の金融システムが生物多様性保全を統合するためのロードマップであり、民間セクターの「何兆ドルもの資金」を動員するための信頼性の基盤を築いています 。  


主要セクターにおける先進的な取り組み事例

食品・消費財セクター:サプライチェーン全体での再生型農業への移行

食品・消費財産業は、その事業が自然に大きく依存する一方で、土地利用の変化、汚染、水利用を通じて生物多様性損失の最大の要因の一つとなっています 。このセクターにおける先進的な企業の戦略は、自社の事業活動だけでなく、サプライチェーンの最上流、すなわち原材料を生産する農業慣行そのものを変革することに焦点を当てています。  

ネスレの取り組みはその好例です。同社は、2025年までに主要原材料の20%、2030年までに50%を再生型農業を導入している農家から調達することを目標に掲げています 。この戦略は、多様な作物システム、土壌の健康、水質、生物多様性、そして景観レベルでの協調行動という5つの柱に基づいています 。再生型農業は、土壌の有機物含有量を増やし、炭素を隔離し、水の保持能力を高めることで、単なる環境負荷の軽減に留まらず、農家のレジリエンス向上にも寄与する包括的なアプローチです 。  

ユニリーバもまた、再生型農業を戦略の中核に据えています。同社は、2030年までに100万ヘクタールの農業用地で再生型農業を導入することを目標とし、すでに23のプロジェクトを通じて13万ヘクタールをカバーしています 。さらに、パーム油や茶葉といった主要な原材料の95%をサステナブルに調達することを目指しています 。  

小売大手のウォルマートも、サプライチェーンのサステナビリティ向上を慈善活動とビジネスの両面から推進しています。ウォルマートとウォルマート財団は、2030年までに少なくとも5000万エーカーの陸地と100万平方マイルの海洋を保護・管理・回復させることを目標に掲げ、Conservation InternationalやThe Nature ConservancyのようなNGOと連携しています 。この連携は、コーヒーやカカオのサプライチェーンにおける森林保護や、米国の穀物生産における土壌健康の向上を目的としており、供給の安定性、ブランド価値の向上、そして消費者ニーズへの対応というビジネス上の合理性に基づいています 。これらの事例は、生物多様性保全が、サプライチェーンのレジリエンスを確保し、長期的な事業成長を可能にするための不可欠な戦略テーマであることを示しています。  

ラグジュアリー・ファッションセクター:ネット・ポジティブ目標と業界の協調行動

ラグジュアリー・ファッション産業は、原材料調達(皮革、ウール、カシミヤなど)を通じて広範な生態系に影響を与えるため、サプライチェーンにおける環境負荷の管理が重要な課題となっています 。このセクターでリーダーシップを発揮しているのが、ケリング(Kering)です。  

ケリングは、2025年までに「生物多様性ネット・ポジティブ・インパクト」を達成するという、非常に野心的なコミットメントを掲げています。これは、同社の土地利用フットプリントの6倍にあたる面積(約100万ヘクタール)を再生・保護することを意味します 。この目標を達成するため、同社は回避(Avoid)→削減(Reduce)→回復・再生(Restore & Regenerate)→変革(Transform)という4段階の体系的な戦略を構築しています 。  

この戦略の第一段階である「回避」では、アマゾンでの森林破壊に関与した農場から調達された皮革の使用を避けるといった厳格なソーシングポリシーを導入しています 。第二段階の「削減」では、従来の綿と比較して環境負荷が80%低いオーガニックコットンの調達を優先し、リサイクル素材の利用を拡大しています 。第三段階の「回復・再生」では、「Kering for Nature Fund」を通じて、採掘活動などで劣化した生息地の回復を支援し、再生型農業プロジェクトに投資しています 。そして第四段階の「変革」では、自社単独の努力に留まらず、フランソワ=アンリ・ピノーCEOが主導する「Fashion Pact」イニシアティブを通じて、業界の競合他社を巻き込み、共通の目標(2025年までのゼロ・デフォレステーションなど)に向けた協調行動を促しています 。  

ケリングは、環境損益計算書(Environmental Profit & Loss account, EP&L)を用いてサプライチェーン全体の土地利用フットプリントを数値化しており、この定量的なアプローチが、抽象的な目標を具体的な戦略へと移行させています 。ケリングの事例は、生物多様性保全が、企業のブランド価値を高めるだけでなく、業界全体のレジリエンスを構築するための競争優位性となりうることを示しています。  

テクノロジーセクター:テクノロジーが自然にもたらす影響と機会

テクノロジーセクターは、そのビジネスモデル自体が自然に大きなインパクトを与える一方で、生物多様性保全における最も強力なソリューションを提供しうるという二重性を抱えています 。  

一方で、テクノロジー企業のサプライチェーンは自然に深く依存しており、隠れた環境リスクを内包しています。例えば、データセンターは冷却のために年間25億リットルもの水を消費することがあり、半導体製造はさらに多くの水を必要とします 。また、製品に使用される金属や鉱物の採掘は、広範な土地利用の変化と生物多様性の損失を引き起こします 。  

しかし、他方で、このセクターは自社の技術力を活用して、自然保護に貢献する革新的なソリューションを生み出しています。マイクロソフトは、2020年に「使用する土地よりも多くの土地を保護する」というイニシアティブを開始し、同時にAIなどのツールを活用して生態系を保護・回復させることを公約しました 。同社のAI for Good Labは、AIと衛星画像や音響データを組み合わせてアマゾンの森林破壊を監視する「Project Guacamaya」や、野生生物モニタリングのためのAIツール「SPARROW」を開発しています 。これらの技術は、これまで困難だった生物多様性データの収集と分析を可能にし、より効果的でコスト効率の高い保全活動を支援しています。 

アップルもまた、テクノロジーセクターの特長を活かした戦略を展開しています。同社は、2030年カーボンニュートラル目標の一環として、排出量の75%を削減し、残りの25%を植林やマングローブ再生といった「自然ベースのソリューション」を通じてオフセットすることを表明しています 。これらのプロジェクトは、炭素隔離だけでなく、気候変動への適応や生態系の回復にも貢献するとされています 。  

これらの事例は、テクノロジーセクターにとって、生物多様性への取り組みが、事業リスクの管理と、持続可能な成長のための新たなビジネス機会(AIを活用したソリューションなど)の両方を提供する戦略的課題であることを示しています 。  

表1:主要企業の生物多様性目標とイニシアティブ比較

企業名

主な目標

主な取り組みとパートナーシップ

ネスレ

2030年までに主要原材料の50%を再生型農業から調達

5つの柱(土壌健康、生物多様性など)に基づく再生型農業  

ユニリーバ

2030年までに100万ヘクタールで再生型農業を導入

NASA Harvest、Nature Metricsと連携して効果を測定

ケリング

2025年までに生物多様性ネット・ポジティブを達成

4段階戦略、Fashion Pactイニシアティブ、Kering for Nature Fund

マイクロソフト

使用する土地よりも多くの土地を保護する

AIを活用した野生生物モニタリング(SPARROW)と森林破壊監視

アップル

2030年までに排出量の一部を自然ベースのソリューションでオフセット

植林やマングローブ再生による炭素隔離と生態系回復

ウォルマート

2030年までに5000万エーカーの陸地と100万平方マイルの海洋を保護・管理・回復

Conservation International, The Nature Conservancyとのパートナーシップ


4. 横断的な戦略テーマと鍵となる洞察

再生型農業:複数の産業に共通する核心的なアプローチ

本コラムで詳述した食品・消費財、ラグジュアリー・ファッションといった異なる産業の先進事例には、共通する戦略的テーマが存在します。その一つが「再生型農業」です。ネスレ、ユニリーバ、ウォルマート、ケリング、バイエルといった各セクターのリーダー企業は、サプライチェーンの核にこのアプローチを据えています 。  

再生型農業は、もはや単なる環境イニシアティブではなく、サプライチェーンのレジリエンス、気候変動適応、そして生物多様性保全という3つの課題を同時に解決する「統合的ソリューション」として認識されています。土壌の健康を改善することで、炭素を土壌中に隔離し、同時に水の保持能力を高めることができます。これにより、気候変動への適応力を高めるとともに、生態系サービスを強化し、生物多様性の回復を促進します 。従来の環境対策が特定の課題に焦点を当て、他の課題との間でトレードオフを招くことがあったのに対し、再生型農業は複数のベネフィットを同時に追求する包括的なアプローチです。これは、気候変動と生物多様性という二つの危機が密接に絡み合っているという認識()から生まれたものであり、今後も多様な産業の企業戦略における中心的テーマであり続けると見られます。 

テクノロジーの活用:AI、衛星データ、環境DNAがもたらす革新

生物多様性保全における最大の障壁の一つは、その複雑さと広範な性質から、取り組みのインパクトを正確かつ大規模に測定することが困難であるという点でした。この障壁を取り払い、企業や投資家の取り組みをより科学的かつ定量的に、そして投資家にとって魅力的にしているのが、AI、衛星データ、環境DNA(eDNA)といった技術の活用です。

マイクロソフト やネイチャー・テック・スタートアップ が示すように、AIは音響データや画像から生物種を識別し、衛星は広大な森林被覆の変化を追跡します。また、BNP Paribasが支援するNatureMetricsは、水中の生物を非侵襲的に測定するeDNA技術を活用して、広域なモニタリングを可能にしています 。これらの技術は、保全活動の効果を数値化する新しい方法論を提供し、生物多様性保全を主観的な「善行」から、客観的なデータに基づいた「戦略的投資」へと変貌させています。この測定可能性の向上は、TNFDやSBTNのようなフレームワークの実装を可能にし、ひいてはネイチャー・テック市場への投資を促進する上で不可欠な要素となっています。  

官民連携とパートナーシップ:影響力拡大のための協調戦略

生物多様性の損失は、単一の企業やセクターの努力だけで解決できる問題ではありません。その複雑さと広範な性質は、複数の要因が絡み合うマクロな課題です。このため、先進的な企業は、その影響力を最大化するために、産業界、NGO、政府、学術界との協調戦略を不可欠な要素としています。

ウォルマートがConservation InternationalやThe Nature ConservancyのようなNGOと長期的なパートナーシップを構築していることは、地域レベルでのサプライチェーン変革を可能にするための専門知識とネットワークの重要性を示しています 。また、ユニリーバがNASA Harvestと連携して再生型農業のインパクトを測定している事例は、科学的知見を事業活動に統合する有効なモデルです 。さらに、ケリングが競合他社を巻き込み「Fashion Pact」を共同で推進していることは、共通のサプライチェーン課題を解決し、業界全体のレジリエンスを構築するために、セクターを超えた協力が不可欠であることを物語っています 。これらのパートナーシップは、企業の生物多様性戦略における「乗数(multiplier)」となり、単なる自己責任の範囲を超えて、セクターや社会全体の変革を加速させるための必須条件です。  

サマリと企業が見習うべき点

グローバルなベストプラクティスの要約

本コラムではは、国外企業における生物多様性への取り組みが、単なる環境コンプライアンスや慈善活動の枠を超え、事業のレジリエンス、サプライチェーンの安定性、そして新たな成長機会を創出するための核心的な戦略テーマへと進化している状況を紹介しました。

主要なベストプラクティスは以下の通りです。

  • 国際的なフレームワークへのコミットメント
    TNFDやSBTNといった共通の開示・目標設定フレームワークに積極的に準拠することで、投資家やステークホルダーとの間で透明性の高いコミュニケーションを確立しています。

  • 金融セクターの変革的役割
    機関投資家は、エンゲージメントや議決権行使を通じて投資先企業の行動を促し、一方、金融機関は「ネイチャー・テック」への直接投資を通じて、新たな市場を創出しています。

  • サプライチェーンの再定義
    食品・消費財やファッションセクターは、サプライチェーンの最上流にある農業慣行を「再生型農業」へと移行させることで、生物多様性と事業のレジリエンスを同時に向上させています。

  • テクノロジーの戦略的活用
    テクノロジーセクターは、AIや衛星データといった自社のコア技術を、生物多様性モニタリングや保全活動の効率化に活用し、この分野における測定可能性という最大の課題を解決しています。

  • マルチステークホルダー連携
    企業は、単独ではなく、NGO、競合他社、公的機関といった多様なステークホルダーと連携することで、その影響力を最大化し、セクター全体の変革を加速させています。

日本企業が考慮すべき戦略的インプリケーションと今後の展望

日本の企業は、すでに高い生物多様性報告率を誇り、TNFDへの初期関与も進んでいるという強みを持っています 。この優位性を活かし、次の段階へと進むことが求められます。  

具体的には生物多様性への取り組みを、単なるCSR報告項目としてではなく、経営戦略の中核に位置づけることが求められる時代となっています。そのためには、事業活動が原材料調達、製造、輸送の各段階で自然にどのような依存と影響を与えているか、サプライチェーン全体にわたる詳細な分析を行う必要があります。この「ネイチャー・デューデリジェンス」は、隠れたリスクを特定し、再生型農業のような具体的な行動計画を策定するための出発点となります。

グローバル企業の事例が示すように、テクノロジーは生物多様性戦略の不可欠な要素です。企業は、環境監視やデータ分析におけるテクノロジーの活用を、単なる効率化ツールとしてではなく、戦略の核心として位置づける必要性に迫られています。取り組みのインパクトを定量的に示し、投資家やステークホルダーに対する信頼性を高めることができ、企業の競争力の一助になることでしょう。


【出典・参考文献】

更新履歴: 2026年9月 — 冒頭の節にIPBES「ビジネスと生物多様性評価」(2026年2月承認)を追記。国際的な枠組みの節に、COP16再開会合(2025年2月)のCaliファンド発足・資源動員の合意・モニタリング枠組みの確定、SBI-6(2026年2月)時点の国別目標の提出状況、COP17(2026年10月・エレバン)を追記し、TNFDのアダプター数(2025年11月・733組織)、SBTN・Finance for Biodiversity Pledge・Nature Action 100の実績を追加。KPMG調査の数値に「2022年調査時点」を明記したうえで2024年版の結果を併記し、国別の上位を4か国(英国・タイ・南アフリカ・日本)に修正。新たに「開示規制の動き(2025〜2026年)」の節を設け、ISSBの基準設定着手、EUオムニバスI指令の発効、EUDRの適用延期を事実と時点で追記。出典のうち到達できなくなっていた2本(Conservation International・KPMG 2022)を差し替えました。


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